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紀州の檜

紀州の檜

一般財団法人 温知会 理事長  南 嘉輝

小さい頃、紀伊の田舎で、こんな話を繰り返し聞かされた。

 紀州の偉い人が、その人は貧しい家に生まれ江戸に出て車引きをしていたのだが、ある年大阪で ミカンの値段が暴落し、江戸では暴騰するという出来事にであった。当時は、上方でも江戸でも、ミカンといえば紀州ミカンが愛されていた。その年、紀州のミカンが大豊作だったのだが、海が荒れて江戸に向かうミカン船が出ない。それで陸路 で運ぶ上方(大阪)では江戸の分までのミカンが 流入してミカンの価格は大いに下がってしまった。江戸では一向にミカンが入ってこないから当然値段が上がる。江戸では、ふいごまつりという鍛冶屋の神様を祀るお祭りがあって、江戸町内の 鍛冶屋の屋根の上からミカンをばらまいて町民に振る舞うという風習があったのだが、肝心のミカンが手元に届かないからお祭りもままならない。

 貧しい男はこれに目をつけた。あちこちから金を借り集め、紀州に帰って暴落したミカンを買えるだけ買い集め、おんぼろの船を仕立ててミカンを満載した。船には命知らずの船乗りを集めて荒海に乗り出したのだ。江戸に向かったミカン船は、この一艘だけ。 ぼろ船は、荒れた海にもてあそばれ、なんども転覆しそうになりながら、なんとか江戸に辿り着いた。貧しい男と船乗りは、江戸の町民から、江戸っ子のために命がけでミカンを運んでくれたと喝采を受けて江戸の人気者になったうえミカンは高値で売れたから、たちまち大金持ちになった。人気は絶大で、なんと江戸の歌にまで詠われた。

 歌といってもかっぽれである。かっぽれだと、それは何だと知らない人が多いだろうが、そう呼ぶ滑稽な格好をしたおどけた踊りがあった。江戸住吉神社などで演じられたのが始まりで、今の時代では、古今亭志ん朝が寄席で踊って見せたりしたという。江戸の時代にそのかっぽれの歌にもなった、「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国 ミカン船」と歌う。貧しい男の仕立てたミカン船が歌になったのだ。

 金持ちになった男は、今度は塩鮭を売って大金 持ちになった。上方で大雨で洪水があったあと、伝染病がはやった。男は上方で流行病には塩鮭がいいと噂を流し、江戸で大量に仕入れた塩鮭を運び込んだ。上方の者は金に糸目をつけずに買い漁ったから、この貧しい男だった男は、大金持ちになった。

勇気と機略が商人の成功ももたらすのだよという話だったのだろうが、幼いながら、人を騙して儲けるのはいやだと思ったものだ。貧しい男の名前は紀伊国屋文左衛門という。紀伊国屋の紀と文左衛門の文で、紀文のお大尽と呼ばれたそうだ。大金持ちになった紀文大尽は、江戸の大火の時には木曽の檜を買い占めて、これはもう大金持ちじゃない、豪商になった。 豪商は、江戸の幕府も動かしたというから、今でいうとビルゲイツか、プーチンか。何しろトランプ程度の金持ちではない。

それが一転又貧しい男に戻ってしまう。

 時の将軍に頼まれて、全財産をかけて十文銭の鋳造に当たった文左衛門は、将軍綱吉が亡くなって幕府がこの十文銭の流通を禁じたものだから、あっという間にすかんぴんになってしまったのである。要するに、勇気と気力が大事だが、自分で考えたこと以外は危ないよということを話して聞かせようとしたようだ。私は長いこと、文左衛門が売り払って大もうけをしたのは紀州の檜だと思い込んでいたが、もしかしたらこの話の主がそう話したのかも知れない。

 私が聞いたこの話が、今では全く役に立たない。何故かというと、紀伊国屋文左衛門は情報の時差を捉えて商機を見つけたが、今のグローバル社会では、世界中にそれも瞬時に情報が行き渡る。

 時差がない社会にも商機はある。時差がないために生まれる商機である。それを見つけ出して、大金持ちでなくていいから、さすがといわれる病院になりたいものである。

木場公園にいってみた。紀州から材木が運ばれていた場所である。昭和 44 年に貯木場は新木場に引っ越して今は公園になっている。
隅田川を越えてちょっと先、東陽町の隣の町が木場の町である。
少しの間公園を歩いた。

 子供に言い聞かせた話が、その子が生きている 間に通じなくなってしまうなんて思いもしなかっ たであろう人々が、無性に懐かしく思えた。誤解がないように言っておくが、紀文というかまぼこ、 伊達巻き、はんぺん、つみれ、鳴門捲きのお店は、 この紀伊国屋文左衛門とは関係がないそうである。